私たちに激しい痛みと、アナフィラキシーショックの恐怖をもたらす、アシナガバチの毒。しかし、その強力な毒液に含まれる様々な化学物質は、視点を変えれば、創薬や、生物学研究のための、貴重な「宝の山」でもあります。世界中の科学者たちが、この危険な毒の、意外な利用法を、長年にわたって研究しています。アシナガバチの毒に含まれる成分の中で、特に注目されているのが、「マストパラン」と総称される、ペプチド(アミノ酸が複数結合したもの)の一群です。このマストパランには、細胞膜を破壊したり、細胞内の情報伝達をかく乱したりする、非常に強力な生理活性作用があります。例えば、マストパランの一種には、がん細胞の増殖を抑制したり、アポトーシス(細胞の自死)を誘導したりする効果があることが、研究で示されています。この性質を利用して、新たながん治療薬の開発に応用しようという試みが、進められています。また、別の種類のマストパランには、強力な抗菌作用があることも分かっています。抗生物質が効きにくくなった、多剤耐性菌などに対する、新しい抗菌薬のリード化合物として、期待が寄せられています。さらに、マストパランは、神経細胞の活動にも影響を与えるため、脳機能の解明や、神経疾患の治療薬を開発するための、貴重な研究ツールとしても利用されています。毒とは、そもそも、生物が捕食や防御のために進化させてきた、究極の化学兵器です。その中には、他の生物の生命活動を、根幹からコントロールするための、洗練されたメカニズムが凝縮されています。蜂の毒を、ただの「毒」として恐れるだけでなく、その中に隠された、精緻な生命の仕組みを解き明かし、それを人類の利益のために役立てようとする。科学の探求は、危険と隣り合わせの、未知の領域へと、今もなお、進み続けているのです。もちろん、これらの研究は、まだ基礎研究の段階にあるものがほとんどです。しかし、いつの日か、私たちを苦しめるアシナガバチの毒から、私たちの命を救う画期的な薬が生まれるかもしれない。そう考えると、彼らの存在が、少しだけ違って見えてくるのではないでしょうか。